経年劣化。

気づけば足が組めるようになっていた。

 

というものの4,5年前まで日常の所作として足を組んだことがなかった。

専門学校に通っていた頃、仲良くしてくれていた人が会話中も、ノートをとるときも、授業中先生の話を聴いているときも常に足を組んでいた。

その人とそんな話になったとき自分も足を組んでみた。

笑われた。

ただ違和感は自分でもすぐに感じていた。元々体が硬いのもあり慣れないポーズに体が明らかに馴染まず目の前に見えているそれとは違うものになっているのだろうと察した。

自分でも滑稽などだろうと思ったが別に足を組まずとも20年間不自由なく生きてこれていたし必要不可欠なものでないことはわかっていたのでこれからも別に足を組まなければ滑稽にはなるまいと気にも留めていなかった。

 

今日家で本を読んでいたとき僕は足を組んでいた。

いつの間にか自分に馴染み、違和感を感じることもなく、自然に足を組み高くなった方の足に肘を置き、本を読んでいた。

 

足を組む、という姿勢になんとなく大人っぽい、大人ぶってるようなイメージがある。

もしかしたら年をとると自然と綺麗に足を組めるようになるのかもしれない。歯が生え変わるように、苦いビールが飲めるようになるように、友達の作り方がわからなくなるように、遊ぼう、といってした約束が全て食事になるように。

 

消化試合みたいな仕事をこなす日々の中、職場からはステップアップしろというサイレント圧力と今のこの環境から脱したいという気持ちで板ばさみになった結果、プラマイゼロの何も変わらない毎日でも確実に自分の体は古くなり、気づかないところでこっそり体の中の構造が変わっているんだと。

 

把握しきれないところでも変わってしまう自分を望む方向に変えていくのは難しそうだ。

そのためにどうするのか考えては行動せず家でタイムラインをスクロールしている。

今日も動き出さねばと思った、、これからも思い続けよう。

そうしたら把握してないところで動き出すかもしれない。

 

 

あの時足を組んだ僕を笑ったあの人とは卒業以来会っていない。

今度その人に会ったとき足が組めるようになったと言ったらどんな反応をするだろうか。そのことを覚えてるかもしれないし覚えてないかもしれないしどうでもいいかもしれないしどうでもよくないかもしれない。